Masuk第四十一話 涙の跡
「ちょっと、やめなさい 梅乃!」 大部屋に妓女の声が響く。
「もうすぐ追い出しますので」 梅乃が返事をする。
これは大部屋にゴキブリが出ていたのだ。 梅乃はホウキでゴキブリを外に誘導している。
梅乃は虫が好きで捕まえていたが、ゴキブリは苦手だった。
梅乃がホウキで追いやるが、ゴキブリは思った方にいかず、妓女のスペースに走っていく。
「キャー」 妓女の叫び声が響く。 それでも梅乃が追い回すと、ゴキブリは妓女の方へ逃げていった。
「ふぅ……とりあえず逃げたみたいですね♪」 梅乃が汗を拭うポーズをすると、
“ポカンッ ” 妓女は梅乃の頭を叩いた。
「もう……何をするんですか 姐さん……」 梅乃が頭を押さえる。
「「何するんですか」じゃねーだろ! 私の場所に追いやっただけじゃねーか!」 妓女は怒って言うと、
「もう見えなくなったし、大丈夫です」 梅乃が自信満々に言った。
妓女は堪らず、追撃のゲンコツを落とす。
「早く始末しとけよ!」 こう言って妓女は外に出ていった。
「何でだよ~」 梅乃がブツブツと言いながらゴキブリを探していると、
「どれどれ……」 そう言って、信濃がゴキブリを探してくれた。
「信濃姐さん……」 梅乃は感激していると、ゴキブリが出てきた。
そこに古峰が捕まえる。
第六十一話 師《し》と子《し》明治七年、冬。 梅乃を指名した定彦が三原屋へやってくる。「うわ~ 綺麗……」 早くも定彦は注目を浴びてしまう。(三原屋って、こんな感じだったっけ?)定彦が最後に来たのは玉芳が花魁になった時である。(そうか……もう二十年以上か……) 定彦は、自身の年齢も実感してしまう。そこに采が受付で待っていた。「久しぶりだね、定彦。 今日は、たんまり持ってきたんだろうね?」 そう言って采がニヤッとすると「相変わらず、采さんは元気ですね。 今回は両でお支払いになりますが構いませんか?」「構わないよ。 それで……持ち合わせを見ようかい」 采がキセルを持ちながら待つと、「以前に采さんから頂いた両を全て……」定彦が見せたのは、玉芳が花魁になる前に『授業料』として出した両だった。 それは采が出した金である。「お前、あの時のまま……」「はい。 風呂敷もそのままです」 定彦がニコッと微笑む。お互いに言葉が出ないまま数分が経った。 そこには当時の事が思い出されている。(そこまでして梅乃を指名するんだ。 何かがある……) 采は頭をめぐらせている。「
第六十話 笑う三日月夕方、引手茶屋に向かう梅乃は勝来と千と一緒だった。 「最近、勝来姐さんの共をしてなかったな~」 「お前が誰かを贔屓にしていたんじゃないかい?」 勝来が笑いながら梅乃を見ると、 「贔屓というか、お婆に目を付けられたから……」 シュンとしていた。 ここ最近、梅乃は遣り手の席が多い。 本当に妓女にしたいのか疑問に思ってきていた。 「それは梅乃さんが凄いってことですよね?」 ここで千が会話に参加すると 「そうとも言うな……私や菖蒲姐さんでも遣り手の席は無理だから……」 勝来が言うと、千は不思議そうな顔をする。 「どうしました? 千さん」 梅乃が顔をのぞき込むと 「今、遣り手の席はお婆と、梅乃さんと信濃姐さんですよね? 信頼されているんだな~と」 遣り手は帳簿や金の管理をする。 見世にとって重要なポジションだ。 その大役を信濃や梅乃に任せることが出来る采の度胸も凄かった。 千堂屋に入ると 「お前たちは待ってなさいね。 それに梅乃……お前は特にだからな! 千、ちゃんと見張っておきなさいよ!」 勝来が釘を刺すと、奥の座敷に入っていく。 「梅乃さん、どうして勝来姐さんに言われたのです?」 千が興味本位で聞くと、梅乃は数々の失敗を話した。 引手茶屋で待っている時にも玲を追いかけていったり、気になれば飛び出して命を落とす寸前までいったことなど…… (壮絶すぎる……それでも行こうとするから釘を刺されてるなんて……) 千は梅
第五十九話 椿《つばき》と山茶花《さざんか》 明治七年 正月。 「年明けですね。 おめでとうございます」 妓女たちは大部屋で新年の挨拶をしている。 すると文衛門が大部屋にやってきて、 「今日は正月だ。 朝食は雑煮だぞ」 そう言うと片山が大部屋に雑煮を運んでくる。 「良い匂いだし、湯気が出てる~♪」 この時代に電子レンジはない。 なかなか温かいものを食べられることは少なかった。 「まだまだ餅はあるからな。 どんどん食べなさい」 妓女たちが喜んで食べていると、匂いにつられた梅乃たちが大部屋にやってくる。 「良い匂い~」 鼻をヒクヒクさせた梅乃の目が輝く。 「梅乃は餅、何個食べる?」 片山が聞くと 「三つ♪」「私も~」 小夜も三本の指を立てている。 「わ 私も三つ……」 古峰も遠慮せずに頼んでいた。 「美味しいね~♪」 年に一回の雑煮に舌鼓を打つ妓女たちであった。 この日、三原屋の妓女の多くは口の下を赤くしている者が多い。 「まだヒリヒリする……」 餅を伸ばして食べていたことから、伸びた餅が顎に付いて火傷のような痕が残ってしまった。 (がっつくから……) すました顔をしている勝来の顎も赤くなっていた。 梅乃たちは昼見世までの時間、掃除を済ませて仲の町を歩いている。 そこには千も一緒だった。 「千さん、支度とかはいいの?」 小夜が聞くと、 「私は張り部屋には入れませんので……」 千は新造であり、まだ遊女のようには扱われない。 それに入ったとしても妓女数名からは良く思われていないので、入ったら険悪なムードに耐えきれないのも分かっていた。 「それに、三人と仲良くしていた方が私としても嬉しいので……」 千が言葉をこぼすと、梅乃たちは顔を下に向ける。 「私、何か変な事をいいました?」 千がオロオロすると、 「なんか、嬉しくて……」 小夜が小さな涙をこぼす。 「う 梅乃ちゃんと小夜ちゃんは大変な時期を送っていました。 わ 私もだけど……」 古峰の言葉は千にとっても重い言葉だった。 気遣いの子が苦労話をすることで、余計に納得してしまうからだ。 「でもね。 私たちは三原屋だから良かったんだ」 小夜がニコッとする。 「う うん。 私も」 古峰も微笑むと、千はホッとした表情になる。 「梅乃~ 小夜~」 仲の町で呼ぶ声が聞こ
第五十八話 魅せられてそれから梅乃たちは元気がなかった。玲の存在を知ってしまった梅乃。 それに気づいた古峰。 それこそ話はしなかったが、このことは心に秘めたままだった。しかし、小夜は知らなかった。(小夜ちゃんには言えないな……)気遣いの古峰は、小夜には話すまいと思っていた。 姉として、梅乃と小夜に心配を掛けたくなかったのだ。それから古峰は過去を思い出していく。(あれが玲さんだとしたら、似ている人……まさか―っ)数日後、古峰が一人で出ていこうとすると「古峰、どこに行くの?」 小夜が話しかけてくる。「い いえ……少し散歩をしようと思って」「そう……なら一緒に行こうよ」 小夜も支度を始める。 (仕方ない、今日は中止だ……) そう思い、仲の町を歩くと 「あれ? 定彦さんだ…… 定彦さ~ん」 小夜が大声で叫ぶと “ドキッ―” 古峰の様子がおかしくなる。 「こんにちは。 定彦さんはお出かけですか? 今度、色気を教えてくださいね」 小夜は化粧帯を貰ってから色んな人に自信を持って話しかけるようになっていた。「あぁ、采さんが良いと言ったらね」 定彦がニコッとして答えると、「古峰も習おうよ」 小夜が誘う。「は はい
第五十七話 木枯らし明治六年 秋。 夏が過ぎたと思ったら急激に寒さがやってくる。「これじゃ秋じゃなく、冬になったみたい……」 こう言葉を漏らすのが勝来である。「日にちじゃなく、気温で火鉢を用意してもらいたいわね……」勝来の部屋で菖蒲がボヤいていると、「姐さん、最近は身体を動かさなくなったから寒さを感じるのが早くなったんじゃないですか?」梅乃が掃除をしながら二人に話しかける。菖蒲や勝来も三原屋で禿をしていた。 少し寒くなったからといっても、朝から掃除や手伝いなどで朝から動いて汗を流していたのだが「そうね……確かに動かなくなったわね」菖蒲は頬に手を当てる。「せっかくだから動かしてみるか……」 勝来が薄い着物に着替えると、「梅乃、雑巾貸しな!」 手を出す。「えっ? 本気ですか? 勝来姐さん」梅乃が雑巾を渡すと、勝来は窓枠から拭きだした。「勝来がやるんだから、私もやらないとね~」 菖蒲も自室に戻り、着替え始める。「……」 梅乃は開いた口のまま勝来を見ている。そこに小夜がやってきて、「梅乃、まだ二階の掃除 終わらない? ……って。 えっ?」小夜が目を丸くする。そこには二階の雑巾掛けをしている菖蒲がいた。「ちょ ちょっと姐さん―」 慌てて小夜が止めに入る。「なんだい? 騒々しいね」隣の部屋から花緒が顔を出す。
第五十六話 近衛師団明治天皇が即位してから六年、段々と日本全体が変わってきた。両から円へ貨幣も変わり、大きな転換期とも言える。「しかし、大名がないと売り上げが下がったね~ どうしたものか……」文衛門が頭を悩ませている。少し前に玉芳が来たことで大いに盛り上がった三原屋だが、それ以降はパッとしなかった。「それだけ玉芳が偉大だったということだな……」 文衛門の言葉が妓女にプレッシャーを与えていた。 しかし、文衛門には そんなつもりも無かったのだが“ずぅぅぅん……” 大部屋の雰囲気が暗くなる。梅乃が仲の町を散歩していると、「梅乃ちゃ~ん」 と、声がする。 梅乃が振り返ると「葉蝉花魁……」「この前はありがとう。 一生の宝物だよ~」 葉蝉は大喜びだった。「よかったです。 本当に偶然でしたけど」「話せたこと、簪を貰ったこと……全部、梅乃ちゃんのおかげ」そう言って葉蝉は帰っていく。「良かった…… みんな、よくな~れ!」 梅乃は満足げな顔をする。「すまん、嬢ちゃん……君は禿という者かい?」 梅乃に話しかけてきた男は軍服を着ており、子供にも優しい口調で話していた。「はい。 私は三原屋の梅乃といいますが……」「そうか。 よかったら見世に案内してくれないか?」 軍服を着た男は見世を探していたようだ。「わかりました。 こちらです」 梅乃は三原屋へ案内する。「お婆……兵隊さんが来たよ」 梅乃が采に話すと、「兵隊? なんだろうね」 采が玄関まで向かう。「ここの者ですが……」 采が男性に言うと、「私は近衛師団の使いできました大木と申します。 短めなのですが、宴席を設けていただきたい」 男性の言葉に采の目が輝く。「もちろんでございます」 采は予約を確認する。「では、その手はずで……」 男性が去っていくと、「お前、よくやったー」 采が梅乃の頭を撫でる。「よかった♪」 梅乃もご機嫌になった。三日後、予約の近衛師団が入ってくる。 この時、夜伽の話は厳禁である。あくまでも『貸し座敷』の名目だからだ。相手は政府の者、ボロを出す訳にはいかない。この日、多くの妓女が酒宴に参加しているが「ちょっと妓女が足りないね…… どこかの見世で暇をしている妓女でも借りるか……」 采が言うと、「お婆、聞いてきます」 梅乃と古峰が颯爽と出て行く。それから梅