LOGIN第四十一話 涙の跡
「ちょっと、やめなさい 梅乃!」 大部屋に妓女の声が響く。
「もうすぐ追い出しますので」 梅乃が返事をする。
これは大部屋にゴキブリが出ていたのだ。 梅乃はホウキでゴキブリを外に誘導している。
梅乃は虫が好きで捕まえていたが、ゴキブリは苦手だった。
梅乃がホウキで追いやるが、ゴキブリは思った方にいかず、妓女のスペースに走っていく。
「キャー」 妓女の叫び声が響く。 それでも梅乃が追い回すと、ゴキブリは妓女の方へ逃げていった。
「ふぅ……とりあえず逃げたみたいですね♪」 梅乃が汗を拭うポーズをすると、
“ポカンッ ” 妓女は梅乃の頭を
第百三十一話 西天楼 明治十一年 二月。 世界では画期的な出来事があった。 エジソンが発明した蓄音機がニューヨークで世界最初の特許権を獲得し、 文明が一段と進歩したのである。 「よろしくお願いいたします……」 東郷が頭を下げると 「じゃ、頼んだよ。 先生……」 キセルを吹かせ、微笑んでいる女性がいる。 その女性は西天楼の遣り手の勢津だ。 西天楼は深川の大見世で、三原屋と同じく大見世の筆頭であった。 「これで吉原の客も深川に向くだろうね。 はっは…… 楽しみだね~」 勢津はキセルを吹かせながら笑っている。 「お婆…… どうして吉原が嫌いなの? わざわざ吉原で妓楼まで買収するなんて」 「おだまり…… これは深川の西天楼が日本一になる為にやっているんだ。 お前は看板娘としていればいいんだよ……」 勢津はニヤッと笑う。 話していたのは勢津の娘であり、看板娘として側近をしている古都である。 大部屋に行くと 「古都ちゃん…… 吉原に行っても警戒されているよ。 花菱楼だって摘発されたしさ……」 妓女たち数人が古都を囲む。 「すみません姐さん…… お婆が言うものですから……」 「そうだけんどさ…… 周りの見世も吉原にちょっかい掛けて花魁に叩かれたじゃないか…… それに、あの看板……」 妓女が説明すると、古都がキョトンとして 「あの看板……?」 「そうだよ……『無風流者は馬の糞である』とか書かれているんだよ。 もし、馬のふんでも投げられたら たまったものじゃないよ……」 吉原では梅乃の立てた看板を見て笑う者が出てきている。 吉原の秩序を乱す者には馬の糞でも投げてやろうと息を巻いている客や妓女が増えていっていた。 「そうですか…… どんな者が立てたか見てみたいですね……」 古都がニヤリと笑う。 その頃、吉原では梅乃が長屋の倉庫を改修していた。 「姐さん…… 下で騒がしなりますが気にしないでくださいね。 それと、窓を開けて換気しますから」 梅乃は病気で臥せっている妓女たちの診察をして窓を開ける。 「梅乃、すまないね……」 妓女が弱気になっていると 「何を言っているんですか。 また元気になって働きましょうね」 梅乃が微笑む。 (本当に、小さなお天道様だよ……) 倉庫から荷物を出して、埃だらけ
第 百三十話 ふりむいて 吉原 朝の六時、まだ空は暗かった。 「ま まだ二月ですもんね…… よく眠れましたか?」 東郷は三原屋に泊まっていた。 横でお世話をするのが古峰である。 古峰は指名も少なく、布団を別にして東郷と同じ部屋で眠っていた。 「わっ―っっ」 東郷が大声を上げると古峰が肩をすくめる。 「ど どうされました?」 「なんで俺は…… 酔って眠ってしまったのか……」 東郷が身体を起こすと 「お お手伝いします」 古峰は背中を押して、ゆっくり起こしていく。 「すまない……」 「い いえ…… これくらい」 古峰は恥ずかしそうにしている。 「それで、梅乃ちゃんは……?」 東郷がキョロキョロと部屋を見渡す。 「お お姉ちゃんは往診でございます。 ま まだ病人が心配なんでしょう……」 古峰が茶を淹れ、東郷に渡すと 「梅乃ちゃんこそ、大丈夫なのか? コロリが完全に治った訳じゃないだろうに……」 東郷は心配になり、着替えを探すと 「あ あの…… 洗濯をしていまして、外に干していますが……」 古峰が外を指さす。 「すまない…… それで乾いているかい? 梅乃ちゃんが心配なんだが……」 古峰は片山
第 百二十九話 ラムネ小松屋で感染した妓女たちが徐々に回復していく。 十二名が感染し、二名が亡くなるという結果にはなってしまったが「よかった……」 梅乃が安心していると「うげーっ―」 梅乃の嘔吐がはじまった。「梅乃ちゃん!」 小松崎の大声が響く。 (まさか?) 二階で声を聞いた葉蝉が階段から降りてくると、便所の前でグッタリしている梅乃がいた。「梅乃ちゃん――」 葉蝉が駆け寄ると 「ダメです!」 梅乃は朦朧とした状態で手を広げる。「梅乃ちゃん……」「感染《うつ》りますから……」 梅乃は手を前に出して葉蝉が来ないようにする。小松崎が三原屋に駆け込み「すみません…… 小松屋ですが――」 ドンドンと戸を叩く。「どうされました?」 対応するのは片山である。小松崎が梅乃が感染したことを話すと「なんてこと……」 部屋にいた采にまで話が聞こえてしまった。 小松崎が采の部屋に行き、頭を下げる。 「采さん、すまない…… 梅乃ちゃんが……」 「仕方ないよ。 これも梅乃が自ら医者になった結果だ。 ただ、親としては死なせたくないのが本音だ…… 感染したら外に出ていく訳にもいかないだろうから、少しの間は面倒見てくれないかい?」
第 百二十八話 意地という炎 小夜は翌日の昼近くに三原屋に戻ってきた。 「すみません……私、吉原から出たことがなくて、深川と言われても怖いというか……」 「そんなことないよ…… 大丈夫だから」 「でも、すみません……」 小夜はしきりに謝って花菱楼を出て来たという。 三原屋でも噂になり、表向きは小夜が潜入捜査をしたことになっている。 「小夜、よく花菱楼の悪事を暴いたね。 よくやったよ~」 妓女が小夜の頭を撫でると「へっ?」 小夜の目は点になってしまった。「小夜…… ちょっとおいで」 采が呼ぶと、肩を落として部屋に入っていく。「お婆、すみませんでした……」 「……」 采は黙って小夜を見つめる。「失礼しんす……」 梅乃と勝来が采の部屋に入ってくると「……」 小夜は、より一層、緊張感が高まっていのを感じる。「小夜、私から話していいかな……?」 梅乃が小夜を見ると「うん…… 話して」「前にも言ったけど、私が邪魔なら言ってね」「それで、どうするのよ?」 小夜が顔をあげると
第 百二十七話 暗闇の暗号「わかりました。 では、引手茶屋にご案内しましょう……」 梅乃が手を叩くと小夜が近づいてくる。「はい……」 小夜が頭を下げる。 この世界は遣り手の席の者が高い立場にあって、呼ばれた者は頭を下げて指示を待つことになっている。「……」 梅乃は黙って小夜を見る。 数秒が経った後「一花いるー?」 梅乃が声を上げると、一花が走ってくる。「……梅乃?」 小夜は、またもや呆然としてしまう。千に突き飛ばされ、古峰にも突き飛ばされる。 最後には梅乃にまでスルーされてしまったのだ。何も知らない小夜の目に涙が滲む。(何よ…… 私は加わってはいけないの? もしかして私が犯人扱いされているの?)小夜が悔しそうな顔をして外に飛び出していく。 客は小夜を気にしてか、何度も外を見ていた。「一花、お客様を千堂屋まで案内してくれる?」「わかりました」 客は八千代と一花を連れて引手茶屋に向かった。客が戻ってくると 「お二階へどうぞ。 酒宴で宜しいでしょうか?」 梅乃が訊くと 「そうね…… そんなに高い物じゃなくていいわ」 これに八千代が答えていく。(馴染みか…… 私が遣り手の席に多く座っていた頃は来ていない…… 最近の客か……) 梅乃は静かに帳簿を開いていく。
第 百二十六話 情報戦「これは幕府公認だった吉原に対する宣戦布告のようなものだ!」 ある妓楼主が大声を出す。この会議には大見世と中見世、小見世からも香梅楼の洋蘭が参加していた。「おそらく深川の遊郭なんだろう…… 東京府で大きな花街は二つだからな」 明治十一年 一月。 西南戦争が終結して半年が経つ頃である。政府は自由な商売を推進。 吉原だけが特別だった風潮を一新するようにしていた。その中で、深川の花街が頭角を現していく。 また、幕府に禁止されていた銭湯の二階などで行為をする『湯女』なども復活してしまった。湯女は女郎とは違い、銭湯の番台に座る看板娘が夜になると客を二階に誘う。三味線や小唄を唄い、娯楽的に集まる男性を客にしている。 場代が掛からない為、安価で楽しめることが庶民から支持を得ていた。「このままじゃ、代々続いてきた吉原という看板に泥を塗ってしまう。 何か良い案はないものか……」大見世や中見世は江戸時代から続く見世であり、内装こそ洋風に変わったりもしたが風習などは江戸時代から続く見世ばかりだ。 短期間で成長した小松屋くらいが知らないだけである。「すみません…… 小松屋《うち》は新参者ですが、この吉原という町が日本一だと思っております。 同じように吉原を守るのが務めだと思っております……」小松屋の主《あるじ》 小松崎が力強い言葉を掛ける。そんな中、黙ったまま話を聞いて
第四十六話 袖を隠す者 昼見世の時間、禿たちは采に指示を受けていた。 「いいかい、妓女として芸のひとつは身につけておかないとダメだ! 舞踏、三味線、琴でもいい…… わかったね!」「はいっ!」 三人は元気に返事する。 この冬を越えれば梅乃と小夜は十三歳となる。 菖蒲や勝来は十四歳の終わりに水揚げをし、十五歳になったら客を取
第二十二話 昼《ひる》行燈《あんどん》「潤さん、おはようございます」 梅乃は早起きをして、見世の前をホウキで掃いていた。「おはよう、梅乃~」 片山も朝早くから掃除をしていた。初夏になると朝陽が昇るのが早い。早い時刻に外が明るくなる為、自然と『後朝の別れ』も早くなっていく。“ゴーン ゴーン ” と、掃除をしている途中に、浅草寺の鐘が鳴る事も稀《まれ》である。そこに赤岩が現れた。「おはようございます」 そう言って、赤岩は身体を伸ばしていた。「赤岩さん、いつも早いですな~」 片山が声を掛けると「夜、寝るのも早いですから~」 赤岩はニコッと答えた。(あれ? 赤岩さんの部屋、
第二十話 新しい禿「……」「へっ?」 梅乃と小夜は驚いていた。「何、ボーっとしているんだい! 部屋割りと仕事を教えてやるんだよ」采は梅乃たちに言っていた。「は、はい―」 三原屋は、新しい禿を迎えいれることになったのである。(先日の客は、この事だったのか……) 梅乃は思い出していた。時を戻して三十分前、「梅乃、小夜、新しい禿になる古峰《こみね》だ。 しっかり教えてやりな」 采の言葉だった。そして古峰は 「……」 無言だった。(この娘は……声が出せないのかな? たまに吉原では変わった人はいるけど……) 「こんにちは。 私は梅乃、よろしくね♪」 梅乃は、『最初が肝心《か
第十九話 花の蜜 「ごめんください……」 昼見世が終わりの時間、一人の来客が現れた。「はーい」 小夜が対応する。そこには二十歳くらいの女性が立っていて「私、引手茶屋の千堂屋《せんどうや》で働いています野菊《のぎく》といいます」「はい……」 小夜は不自然な事に戸惑っていた。「良かったら、此処《ここ》で働けないでしょうか?」 野菊の言葉に、小夜は驚く。「少々、お待ちください」 小夜は、采の元へ向かい説明をしていた。そして、 「なんだい? いきなりどうしたんだい?」 采も驚き、野菊に聞くと「あの……茶屋から、接客を勉強しろと言われまして、働きながら勉強できる所を探していまし